私を解放するブログ

働かない子なしアラフォー|日々思うこと思いついたことなど心の声を解放して自分と向き合っていく自分語りのブログ

この春の心境の変化

昨年の12月から始めたこのブログ、12月、1月と出だし二~三か月間の間は、ブログを書くのが楽しくてしょうがなかった。

それが気づけばこの一か月ちょっとの間、2月11日から今日までの間一切ブログを書くこともなければ、書こうともしなかった。

三か月坊主というレッテルを自分に張りたい、と思う。

そう、私は非常に飽きっぽい。

よく言われる三日坊主の次は三か月坊主、、、三か月ごとくらいの周期でやってくる飽き性の波が子どもの頃から存在していたような気がする。

そういえば、いつだって恋バナに盛り上がっていた十代の頃、誰が言ったか、三日、三か月、一年、三年で別れる説あったな。

飽き性の波と恋愛の破局危機の波の二つの周期性の共通点とは、、、何の根拠もないけど何となく合ってる気がするし、何よりどうでもいい話———に、私はすぐ脱線する。

あっちへ、こっちへ、、、散らかり放題。

飽きっぽい上に頭がとっ散らかっているわけだが、話を戻すと、とにかく私は何事に対しても、飽きっぽくて長続きしない傾向にある。

 

 

 

一時夢中になっていたブログに取って代わり、実は今夢中になっていることが複数ある。

それらの一つ一つに対し抱いている気持ちは共通したものがある。

それは、無理なく関わって長年に渡って楽しみ続けていけたらいいなという思いだ。

長年に渡り、、、ここがポイントかもしれない。

飽き性の私にとって長きに渡って継続させていくのは至難の業なのだが、腰を据えて関わっていけるものを持ちたいと常日頃考えている。

 

これまでの人生の中で言えば、ライフワークと呼べるものに出逢えたことも一度や二度あった。

けれど、これは飽き性だとかの問題ではなく、人生というのはままならないものだから、それが現在まで続くことはなかった。

ライフワークと呼べるものを持っていない今の私は、言ってみれば水戸黄門が黄門を持ってないようなものでとても心もとなく締まりが悪い。

だから、常に探し求めてしまう。

そしてこの数年の私は、ライフワークとなるものを探しあぐね、見つけ出せず落胆するが、それでも探し続け、、、というエンドレスな脳みその働きに振り回されていた。

 

私はなぜ、ライフワークを求めているのだろう。

それがきっと自分自身を証明してくれる唯一のものだと信じているからかもしれない。

ライフワークを持たない私は、一体どんな存在なのかも分からない、存在の危うい存在、透明人間のようなものだと感じてしまう。

私を確立したい、、、張りつめた想いが心を締めつけていた。

それがどういうわけか、そんなひっ迫した気概が薄らいで、今ではだいぶ心が軽くなっている。

日々の何気ない生活を愛おしく感じられる瞬間が増えて、平凡な毎日、日常が花開いていく、そんな感じがしている。

私は自分を喜ばすライフスタイルだったり、趣味と言えるものをどうやら見つけたらしい。

 

ライフワークなんて大袈裟なものじゃなくてもいいのかもしれない。

こうやって生きていくだけ、それこそが私のライフワークなのかもしれないし。

 

 

 

春になると心が緩む。

こんな穏やかで何もない一日には、今の心境をブログに書き留めておくのもいい。

なんて思い立って久しぶりにブログを書いてみると、やっぱりブログもいいなと、再び〝好き〟に火が灯った。

こんな私は飽き性と言うより、気分屋と言う方が合っているのかもしれない。

様々な好きを同時多発的に、そして波があるのを楽しみながら消えたり灯ったりする好きの気持ちに寄り添いながら緩く関わっていくのが私のスタイルなのかもしれない。

 

ブログの火、もう消えちゃったと思ってたけど、まだくすぶってたんだ。

またいつでも、書きたくなったらここに来よう。

 

会食したい想い

この1年、どんな思いを抱いていただろう?

さて一年前の今頃は、どんな生活を送っていたっけ?

 

友人と料理を持ち寄って、お互いの家を行き来しささやかなホームパーティーをすることが恒例となり始めたのが、ちょうど一年前のことだった。

春頃のこと、私自身がもしかしたらコロナにかかってるんじゃないかと一瞬心配になったことがあった。

そのときを境に残念ながら、そのいつもの楽しみは途絶えることとなった。

 

義母や母とは、ときどき一緒に食事をしていた。

外食することもあれば、私が手料理を振る舞うこともあった。

一人暮らしの母親たちにとって、私と夫と三人で食事をすることやお茶飲みをすることは、最も楽しみにしていることの一つだったはずだ。

それが出来なくなってしまったことで、母親たちが寂しい想いをしていることを思うといつも胸が痛かった。

母親たちは猫を飼っている。

母親たちにとって一つ屋根の下に暮らす猫との語らいが、唯一の家族の団らんとなってしまった。

というより、母親たちは家族団らんが出来なくなってしまった、というのが正しい。

もちろんまめに母親たちの元を訪れて、手料理の差し入れをしたり、買い物に連れて行ったり、家の手伝いなんかを申し出たりといったことはやっている。

けれど、母親たちが望んでいるのは手伝いなんかよりも、一緒に食事をすることなのだ。

それができないことの寂しさは半端ないようで、どうしたらいいのかいつも考えあぐねていた。

まだまだ若い高齢者である母親たちを早死にさせたくはないので、コロナが終息するまではとにかく会食禁止を私たち夫婦は掲げていたのだ。

とは言え、母親たちのことを想うと居たたまれなくて、ぶれそうになることも多々あった。

それを夫が毎回静止し、あれから10ヵ月の間、公言通り、私たち夫婦は友人とはもちろん母親たちとも一緒に食事をしていない。

 

今では各々寂しい気持ちを抱えながらも会食できないということに慣れたのだろうか、母親たちからのプレッシャーや期待に応えられない罪悪感を感じることは少なくなった。

けれど一緒に食事したい気持ちがなくなったわけではない。

「早く終わって欲しいね。」が口癖になっている。

 

 

 

この1年、どんな思いを抱いていたか?

「一緒に食事がしたい」

こんなにも人と一緒に食事をすること、「美味しいね」と言いながら同じものを食べて、同じ時間、同じ空間、同じ体験を共有すること、だらだらとお喋りする時間が大切なものだったとは、一年前には今ほどはわからなかった。

コロナが終息した暁には、会食をたくさんしたい。

 

お題「#この1年の変化

私の危ない季節———月天中殺と土用が重なるとき

立春を迎え、暦の上では春となった。

まだ風は冷たいし気温も低く十分に寒いが、ここ数日で確かに春を感じるようになった。

そして新しい年の始まりも感じる。

旧暦では立春が春の始まりであると同時に新しい年の始まりでもある。

 

私は冬土用と節分、立春までの期間をどう過ごすか、どうやり過ごすかに意識を向けてこの一か月を過ごしてきた。

というのも、冬土用は季節の変わり目であり不安定な時期となるため誰にとっても注意が必要のようなのだが、私にとってはとくに鬼門。

この時期になると毎年体調を崩したりしがちなため、細心の注意を払って大人しく過ごしてきたのだ。

さらに邪気払いのためにも、単純に師走に放置した大掃除をなんとかやり終えるためにも、この冬土用は大掃除週間と決めていた。

そんな私の影響で、夫の意識にも冬土用には大掃除をする時という考えが十分に浸透していたようだ。

節分間近になると一緒に大掃除に励んでくれていた日もあった。

そして我が家では毎年恒例の豆まきが、私たちの大掃除を完了させるべく最後にして最大の邪気払いとし、冬土用と大掃除を締めくくったのだ。

 

今年は大豆ではなく落花生で豆まきをしたのだが、どうやら地域によって落花生をまくところもあるらしく、ちょうど頂いた落花生があったのでわざわざ大豆を買うこともないかと今回は落花生にした。

「鬼は外!福は内!」と豆をまいた感じは大豆と同じ、効果は一緒だろう。

家中の邪気が払われて、清々しいエネルギーに満たされている気がした。

今年は我ながら完璧な邪気払いだった気がする。

達成感に包まれ、福福しい立春を迎えることができた。

 

とは言え、まだ微妙な境にいるように感じる。

肉体的に少し不安定な感じがどこかしていて、まだ安心できない。

気を抜くとすぐに体調を崩しそうな危なっかしさがある。

まだ今週いっぱいくらいまでは引き続き注意して過ごそうと思う。

 

 

 

私がこんなにも冬土用に注意を払うようになったのは、実際に心身の調子を崩し絶不調なまさにそのときに冬土用について知ったため、体験と情報が色濃く頭に刻まれたためだった。

そして冬土用を知ってからのこの数年間、冬土用の脅威を頭に常に置きながら注意深くこの期間を過ごすようになっていたのだが、実は今年は例年以上に気をつけるようになっていたのだ。

と言うのもこの一月に、自分自身が子丑天中殺だということを初めて知り、月天中殺というものがあり、それが12月7日から2月4日までの2ヵ月間だということを知ったためだった。

これまで毎年1月と2月の上旬が自分の鬼門だと感じていたのは、冬土用の影響だけではなく、月天中殺も重なっていたからだったのだろう。

しかもそれ加えて、去年から今年にかけての二年間は天中殺期間中だというのだから、この二ヵ月はダブルパンチ、トリプルパンチで危ない時期だったのだ。

幸いにも、生理痛に苦しんだり、そのせいで悪夢にうなされて飛び起きたり、冷えてお腹を下したり、といったいつもの不調程度で月天中殺と冬土用の期間を脱することができた。

今、ほっと胸をなでおろしているところだ。

 

あまり怖がるのも良くないと思うが、自分の不安定になる時期を事前に知って、その期間中注意して過ごすことは大事だと私自身は思う。

そのお陰で大したことも起きずにこの月天中殺と冬土用を過ごすことができたと感じるからだ。

豆まきも効果があるだろう。

「鬼は外!福は内!」

今我が家は、一年で最も清浄なエネルギーに包まれているに違いない。

 

今週のお題「鬼」

 

本当に望むものだけに忠実に生きる

今の私には無理な気がしてならないのだが、、、早寝早起きしようかと思う。

 

「早起きは三文の徳」だというが、本当だろうか。

私自身には早起き信仰はない。

早起きしたからといって何か良いことがあるとか、自分にとってプラスになるとか、あまり思わない。

けれど、早起きがしたくなってきている。

年末年始に遅寝遅起きを十二分にしてきて、ついに飽きたのだろうか。

今度は早寝早起き、さらには〝意識高め〟が来そうな気配がある。

 

これまでの人生を振り返ってみると、自堕落と意識高めとの行ったり来たりを繰り返してきた。

毎日昼過ぎに起きて朝まで飲み歩いてと好き勝手していた時代もあれば、早寝早起き、早朝散歩までして、まさに意識高めな時代もあった。

ここ数年の中でも、自堕落な生活と意識高めな生活とが行ったり来たり入れ違いにやってきていた。

その頻度は数週間単位なのか、数か月単位なのか、数年単位なのか、はたまた数時間単位で一日のうちに入れ替わり立ち代わりしていたり。

私はだらしないのか、そうでもないのか、自分がわからなくなってしまう。

ただ一つ言えることは、一定しないというところだけは昔から変わらない。

 

 

 

そろそろ意識高いフェーズに入るのかもしれない。

早寝早起きをして、家事をスピーディにこなし、空いた時間に何か自分のためになることを始めたい、最近そんな考えにとりつかれている。

自己実現に向けて意識的になろうとしている。

自分の願いをより鮮明にし、より具体的な目標やそれを達成するための方法を考えたり、そんなことに時間と頭を使おうとしているのだ。

 

そんな大それたこと、、、ここ数年の自堕落な私のままでは正直難しい。

そんなハイな気分になったところで、結局これまでの習慣や考え方に引っ張られて、自堕落フェーズから抜け出せやしない。

そんな数年間を実際に過ごしてきたわけだ。

何も変わらなかった。

 

もし一瞬変わったとしても、結局はこの自堕落と意識高めというフェーズを行ったり来たりぐるぐる回っているだけなのだろう。

何も変わらない。

 

そもそも、変わらないとダメなのだろうか。

私は自分を変えたいのだろうか。

確かに変えたい。

こうなりたい、ああなりたい、そんな願望は山ほどある。

だけど、何かになるなんてできやしないし、しない方がいい。

それより、何を本当に望んでいるのかをもっと鮮明にしておきたい。

 

 

 

私の心からの望み、それは―――一つは、幸せ、歓び、幸福感を感じていたいということ。

もう一つは、自分を生きたい。

そう望んでいる。

私はその望みに忠実に生きていきたい。

 

人生は選択の連続だし、日々の生活の中であっても数数えきれないほどの選択があって、その選択の結果が今の自分なのだろう。

だから私は、幸せだと感じられる選択をしていこう。

自分を生きるための選択をしよう。

そうすればすぐにでも、小さな幸せと小さな自己実現が手に入る。

人生はそういう積み重ねで作られるのかもしれないし、小さなことがきっかけで大きな動きを生むのかもしれない。

 

私が幸せだと感じられるなら早寝早起きするし、自分を生きることになると感じるなら遅寝遅起きしてもいい。

その時々で表れる現象はこれからも違ってくるかもしれないし、一定するのかもしれない。

私のライフスタイルがどうなるかはよくわからないままだが、私が幸せで自分を生きれるなら何でもいいのかもしれない。

私は本当に望むものにだけ忠実に生きていこう、そう心に決めた。

 

 

冷蔵庫の中がスッカスカ!

ここしばらく食材の買い出しに行っていない。

三日前に卵と納豆と豆腐だけは買い足したが、その他野菜や肉などの食材を最後に調達したのはもう十日も前のことだ。

お陰で冷蔵庫の中がスッカスカだ。

先日冷蔵庫の中の掃除も済ませたばかりだということもあり、とても気持ちがいい。

 

冷蔵庫の中には先日買い足した納豆と豆腐と卵、お正月の残りの数の子は最近塩抜きして味付けし作り置き。

他には常備菜の類がいくつか。

自分で漬けた大根の酢漬けとミョウガの酢漬け。

その他頂いたたくあんに市販のキムチ。

あとは調味料類とビールと日本酒、ワインが入っている。

それとリンゴがたくさん。

ビニール袋に入れてきれいに整列させて無駄なく収納。

チョコレートが二つ三つ。

リンゴだけたくさん詰まっているけど、他にはパッと見何もないようにしか見えない。

昨日作ったけんちん汁の鍋をどかせば、冷蔵庫の中はスッカスカの状態だ。

 

野菜室はさらにない。

一年分を一度に大量購入するため、梅干しがそれなりに場所をとってはいるが、ぽっかり大きな空間が空いている。

小さくなった白菜(冷蔵庫の外にももう一玉あるが)、大根とごぼうとネギが少しづつ、玉ねぎ一つ、レモン三つ、グレープフルーツ一つ、みかん一つ、ハッサク(?)一つ、ニンニク三つ。

 

冷凍庫の中には車中泊用に揃えたごつい保冷剤が6個もあって、それらがとにかく場所を占領している。

食材は鮭、牛肉、ラム肉。

頂き物がお餅に明太子、豚の味噌漬け、豚まん、エビニラ饅頭、ベーコンとハムがちょっと、本当にたくさんの食材を頂き有難い限り。

他には、庭でとった飾り用の笹や山椒の葉、柚子の皮などもある。

けっこうな量と種類が詰まっている感じがするが、普段の我が家の冷凍庫の込み具合からすると、かなり空いている。

今なら食パン一斤くらい工夫すれば収納できそうなくらい余裕がある。

 

 

 

ここ数日は家にあるものを工夫して食べている。

食材を買い足さないでいるとだんだん冷蔵庫の中の食材の残りが減ってきて、これまで売れ残っていたような食材にもスポットライトが当たるようなことが起こる。

早く食べなきゃと思いながらも放置してしまった食材が、日の目を見るのは喜ばしいことだ。

冷蔵庫が空くたびに、私の心のザワザワが浄化されていくような気がしてくる。

野菜でも何でもちゃんと食べてあげられると、食材の魂が成仏していくような気さえする。

食べ物は食べてなんぼなんだ。

傷ませて捨てるのはもっての外、長い期間置いて本来の美味しさを失ってから食べるのもできるだけ避けたい。

なるべく美味しいものは美味しいうちに、それなりのものも工夫してそれなり以上に、と食べものを大事にして我が家にやってきたすべての食材を有難く美味しく頂くことを常に心がけている。

が、いつもそうできているわけではない。

理想と現実のギャップにストレスを感じるのだ。

からしばらく買いものせずにあるものだけで食べる日が数日続いてくれると、冷蔵庫の中の食材を救済できて、最高に気分がいいのだ。

 

さあ、今日のごはんは何にしよう?

明日のごはんは何にしよう?

何かいつもとは違うやる気が出てくる。

限られたモノで工夫して何かを作るということが、実は大好きなのだ。

栄養のことを考えると、さすがに野菜は買い足した方がよさそうだけど、、、もうちょっと粘ってみたい。

野菜がない分のビタミンを摂取するには、まだたくさん残っているリンゴをこの機会に大量消費するのでOKとしよう。

一石二鳥だ。

 

 

 

今現在冬土用の大掃除期間の真っ只中にいる私は、とにかく不要な物を処分したり物を減らすこと、きれいに整えることばかりに意識が向かっているのだが、普段は消耗品や備蓄できる食材のストックをしておくことにも気をつけている。

田舎での暮らしは備蓄が必要だ。

例えば、大雪が降るだとか地震等の大災害に見舞われたりすればガソリンの供給が行き届かなくなる。

スーパーも歩いて行ける距離にはない。

車が出せなければどこにも行けない。

そんなときは、どこに居ても物資も行き届かないだろうから、田舎も都会も備蓄が必要なのは一緒だが。

そんな非常事態に備えて私は食材をしっかり備蓄しておくのだ。

 

しっかり備蓄してある上で、余剰分を減らしている。

とにかく冬土用が終わる2月2日までは、デトックスに勤しもうと思う。

「鬼は外、福は内」

節分が間近に迫っているが、福を招くには不要なものを処分して、入るスペースを空けておく必要がある。

たくさん空かせて、気持ちのいい節分と立春を迎えたい。

 

 

今年の抱負は「姿勢を整える」———そして心を整える

そろそろ一月も終わりになるというのに今更だが、今年の抱負を考えてみた。

すぐに頭に浮かんだ。

今年の抱負は「姿勢を正す」これで決まりだ。

 

この数年で姿勢がとにかく悪くなってしまった。

咳をするとバキッと音を立て、強い痛みが胸に走るようになったのは3~4年程前からだった。

今では当時ほどキツい痛みはないものの、常に痛みがあるのは依然として変わらない。

その一年後くらいだったか、首がギシギシ鳴るようになり、鈍痛ではあるがこれまでの首こりとは種類の違う痛みを感じるようになった。

ちょうど一年前にはぎっくり背中をやってしまった。

無理なストレッチは絶対にやめた方がいい。

 

猫背の悪化、違うかもしれないがストレートネック、胸鎖乳突筋の異様なハリ、胸郭出口症候群の二歩手前、喉の詰まり感、首が座らない感、首と腕の筋肉と握力の低下、二の腕の振袖化初期。

こんな感じで胸、首、背中エリアが常にギシギシのミシミシで痛くて不安で気に病む日々を過ごしているのだ。

そもそも何故こんな状態に陥ってしまったと言えば、精神的にかなり落ち込んだ時期があり、心の状態が体の姿勢にそのまま表れていたのだろう。

そんな心身のダメージをある程度回復するまで3年も4年もかかってしまった。

この数年は例えていえば出口の見えないトンネルの中を彷徨っていたような期間だった。

だがここ最近では、ついに出口が見えてきたような気がするのだ。

もうすぐ、出口だ。

だから、姿勢を正さなければ。

 

 

 

頭を上げて前を向いて歩いていきたい。

しっかりと自分の手で何かを掴みたい。

胸を張って生きていきたい。

 

そんな風に思っている。

これからは、この想いのままの体の姿勢で日々を過ごしてみようと思う。

フォームを整えれば、内的な状態も整ってくるのだから。

今年の抱負は「姿勢を正す」だ。

体の姿勢を正し、心の姿勢をも正して、人生を好転させたい。

 

 

 

さっそく、以前100円ショップで購入しいつの間にか忘れ去られていた猫背のための姿勢矯正ベルトを押し入れから引っ張り出して装着してみた。

さらに良いか悪いか意味ないかは不明だが、思いつきで帯締めをお腹に締めてみた。

まだ数時間しか試せていないが、今のところ役立っているように感じる。

みぞおちが折れて前傾姿勢になってしまう癖を正して、胸を張ることを促すアンカーになってくれてる。

厚着するこの季節なら、見た目に響くことなくどちらも装着できるので使いやすい。

たぶん私のことだから、こういったアイテムはそのうち使わなくなっていそうだが、様々な方法を検討し試しながら、姿勢を正すことを続けていきたいと思う。

 

加えて、腕の筋力アップのために腕立て伏せを一日一回以上するという日課を作ろうと思う。

一回じゃ少なすぎて意味ないんじゃないかと人には言われそうだが、私は自分に甘いので一日一回くらいに設定しておかないとやらなくなってしまう恐れが大いにある。

一回だけなら、面倒でも体調がいまいちでも何とかできると思う。

まずは効果云々より日課にする、忘れてどっかにしまい込ませないことが重要なのだ。

私の得意技三日坊主を防ぐには、こういう激甘な課題でないと無理だ。

もしかしたらこれでもダメかもしれないが。

とにかく一回より少ない数値はないのだから、これでダメなら腕立て伏せの日課は無理となる。

やるしかない。

 

ということで、今年は最低限の筋力をつけながら姿勢を正して心を正す。

人生を好転させる。

ということを念頭に日々を過ごしてみようと思う。

 

 

結婚生活に必要なこと―――お互い様と堪忍袋

冬土用も残すところあと一週間となった。

計画通り大掃除は順調に進んでいる。(大目に見て。)

この家に引っ越して以来一度も片付いたことがなかったエリアの片づけまで終えることができた。

それはそれは、ものすごい達成感だった。

 

本当はこのエリアの片づけは夫の担当だった。

だから、片付かないことがストレスになりながらも、口出しも手出しもせずに我慢してきたのだが、堪忍袋の緒が切れたということなのだろうか、機が熟したということなのだろうか、もうやっちゃっていいよね!?というタイミングに達していたのだろう。

鬼の居ぬ間にというやつだ。

片付けてやった。

 

一度人に任せたことに干渉するのはいけないことだろうし、勝手にやってしまうなんて言語道断だという認識ももちろんあるが、こういうことはこれまでも多々あった。

もう期限切れですという時点までは、とにかく私は関与しない。

夫が何年その片づけを放置しようが咎めたりしない。

夫が私の手出しに納得がいくであろう時期に達するまではひたすら放置する。

そう、夫が私の手出しに納得できる頃合いを見計らって実行に移すのだ。

片付いた様子を見て、夫は私にただ感謝した。

 

私も面倒くさがり屋なので、夫がなかなか動き出せない気持ちはよくわかる。

片付けるだけでもなかなか取り掛かろうとしない上に、片付けるためにまずは棚を作ろうだとか更なる計画を上乗せしては、一段と腰を重たくして取り掛かれなくなってしまう、そんな気持ちもよくわかる。

こんなことは一度や二度ではないので、私の方は「大変じゃない?」と、長期間に渡って放置される事態になることを案じて、その決意のほどを伺ってみたりするのだが、だいたいこの時点では夫はやる気に満ちている。

そうなると任せるほかなくなってしまうのだ。

そして私は、ただひたすらに二年という長きに渡って待ったのだ。

 

 

 

夫と一緒になってから、私は忍耐強くなった。

夫は神経質な上に自分のペースを頑なに守ろうとする人なので、上手くやっていくには私の方がフォローしていく以外に方法がなかった。

夫は何事にも時間がかかる。

その上人任せにできない質で、私が手伝おうという申し出を突っぱねてきたりする。

それが私の為にもなるから手伝いたい、そこまで言っても受け入れようとしない。

結局夫が頑固なせいで、私までそのしわ寄せを受けることになるのだ。

 

そんな経験は山ほどしてきた。

そのお陰で私は忍耐強くなり、そして夫の扱いにも慣れた。

夫の方は、私の言うことに以前よりもずっと耳を傾けてくれるようになっている。

 

人と人とが一つ屋根の下、共に生活するというのは簡単ではない。

夫は夫で様々な葛藤を抱えながら、この結婚生活を続けてきたのだろう。

お互い様だから許し合える。

 

と言いながらも、実際には難しい。

お互い様だということを忘れないでいることがとても難しいのだ。

「お互い様」と心に刻もう。