私を解放するブログ 働かない子なしアラフォー桃色ジプシー

日々思うこと思いついたことなど心の声を解放して自分と向き合っていく自分語りのブログ。桃色ジプシーとは私の脳内環境の象意です。

着たい服と着てる服

最近トレーナーとダウンパンツの日常着か、黒いダウンコート羽織ってベージュのパンツとスニーカーといった地味な普段着といった2パターンの服装しか着ていない。

どこに出かけるでもなければ誰と会うこともないないのだから、オシャレする日はここ一年の私には皆無だった。

 

私はほとんどの時間を部屋着と近所着である日常着で過ごす。

とくにどこも出かけない一日、朝起きて夜寝間着に着替えるまでの時間着続けている服装がこれだ。

家の中で快適に過ごすための動きやすくて着心地のいい服装。

冬のこの時期は、トップスはヒートテック等に着丈袖丈がジャストサイズのダウンジャケットにダボっとしたトレーナーを重ねた自分至上最も温かくて軽く着心地が良く動きやすい極暖トップスレイヤー。

ボトムスはスウェットのパンツにダウンパンツを重ね履き。

こちらも軽くて温かく、着心地もよくて動きやすい。

靴下は二枚履きが基本。

見た目はいまいちでも厚手で温かいものを内側に履き、厚さはないけど見た目が気に入っている靴下を外側に重ねて履くというのが秋から春にかけて寒い季節の靴下の履き方の定番だ。

我が家は古民家というほど古くはないけれど古民家風の田舎の一軒家で、冬は家の中でもけっこう寒い。

暖房をつけているのはキッチンと続きの居間のワンフロアと寝室のみ。

あとの部屋は外とあまり変わらない寒さとなる。

これだけ着込んでいると部屋の中では暑く感じることもあるけれど、それでもしっかり着込んでいないと体が冷えてしまう。

しっかり着込んでいるので散歩しようというときも、居間で寛いでいたそのままの格好に手袋をするくらいでパッと外に出られる軽快さが気に入っている。

逆に言うと、外でも過ごせるくらいモフモフに着込んだ服装で家の中でも快適に過ごせるってどういうことだろ、と都会の人が見れば違和感を感じるだろうが、田舎の古い一軒家というのは程度の差ほどあれだいたいこんなものだろう(?)。

着心地、温かさ、便利さ、動きやすさ、機能に関して言えば文句のつけようがない。

あとは見た目だが、これも意外と気に入っている。

GUでこの冬購入したピンクベージュや淡い紫色のトレーナーが気に入っている。

二枚を着まわしながら常に着ているので毛玉が早々についてしまったことが残念だが、色と形が好きで、こんな機能性追求の日常着でもささやかながら可愛らしさを演出してくれる重要アイテムとなっていた。

やっぱり見た目は大事なのだ。

可愛くなければ盛り下がる。

人が見たら十分変な格好かもしれないが、私は今のところ満足している。

 

一方普段着はどんな服装かというと、普段ちょっと外出する際、例えばスーパーへの買い物や母親たちの家を訪れる際に着ている、可もなく不可もないお決まりコーデのことだ。

この時期はやはり、まずは寒くない服装が基本だ。

ハイネックのニットと温かいカーゴパンツ、ダウンコートにスニーカーというカジュアルな服装で、とにかく寒くなく、そして見た目のポイントは田舎の町に馴染む地味色。

どこかひっそりと暮らしたい、という想いがあるのかもしれない。

 

これらの日常着、普段着で大半の日を過ごしていることになる。

なんとも洒落っ気のない姿。

 

 

 

こんな私だけど以前は洋服命だった時期もあるくらい、オシャレは重要なテーマだった。

鮮やかな色も個性的なデザインも大好きで、あの頃の私は服装に無難さを求めるなんて自分とは無関係な話だと考えていた。

それが一変、機能優先、地味で目立たず、低価格万歳、といった姿勢に変身することとなった。

 

二十代に着ていた服は三十過ぎてから断捨離してもうほとんど残されていない。

二十代の頃に似合っていた服装が三十代似合うかと言えば、まず似合わない。

無理して若い頃の服を着ていると、見た目に違和感が生じてあまりいい印象を人に与えないばかりか、自分も居心地の悪いような気分になることだろう。

年相応の服装をすべきなんて硬いことは言わないが、今現在の自分と合う合わないを常に見定めた服装を心掛けた方が自分のためだと思う。

だから三十過ぎた私は、お気に入りだったものも含めてほとんどの服を処分していた。

 

こんまりのトキメキチェックは、あの頃の私(と夫)のちょっとしたブームだった。

正直言うと捨てすぎて後で後悔していたほどだ。

そんな経緯もあり、私は洋服を十分に持っていない。

 

 

 

日常着と普段着さえあれば生活には困らないが、それだけではやはり味気ない。

私だってたまにはオシャレしたい!

だけどオシャレは今の私にとって、ちょっとハードルが高い。

オシャレから離れすぎてしまい、オシャレが遠くに感じられる。

黒やベージュやグレーや紺といった無難な色に慣れ過ぎてしまって、私が以前では好んで着ていた赤やピンクといった色を身につける勇気なんて、今ではない。

継続は力なりと言う言葉があるが、これはオシャレにも通じる。

オシャレは継続している人々にとってはいくつになってもその人を素敵に輝かせてくれる力となる。

一方で、一度遠のいてしまうと取り戻すのがなかなか難しい。

取り戻すのに必要なのは、勇気とお金だ。

どちらもあまりない。

 

だけど私は諦めない。

今年こそ色を取り戻すんだ!

 

2021年私の年間スケジュール―――ケートゥ期から金星期へ移行

もうすぐ土用がやってくる。

立春そして旧正月の前18日間(年によって前後する)が、毎年冬の土用の期間となる。

2021年の冬の土用は1月17日から2月2日までとなる。

この期間中は旧暦では年末にあたるため、年末の大掃除として普段やらない掃除をしようと、水面下でやる気が燃え始めている。

普通なら大掃除を済ませたばかりで家中がきれいになっていていいはずだが、12月に行うべき大掃除を今年は全くと言っていいほど行わず、年末から十二分に寝正月を満喫していた。

その反動からだろうか、掃除したい欲求が高まりつつある。

ぐうたら人間のやる気スイッチがついに押されるのであろうか。

 

 

 

2021年に入り、そして入る前から、この一年はどんな動きをしていこうかと何となくの年間スケジュールを頭の中で立てていた。

まず1月は新しい年を迎えたエネルギーと旧正月を目前に控えた年末のエネルギーが交錯する新年への移行期とも言える時期だ。

そして先ほどから言っている土用にあたる期間でもあるため、2月2日の節分までの期間、家で寡黙に掃除や片付け整理整頓、同時に体の掃除健康維持促進、家と心身の邪気払いに励むこととする。

 

次に待ち受けるイベントというと、季節は廻り、6月6日。

この日は私にとって7年間という長い苦境の期間から脱する記念すべき日なのだ。

インド占星術では人の一生の中にはいくつかの決められたサイクル、例えば太陽期だとか木星期といった数年から数十年に渡る期間が存在しており、人によって始まる場所は様々だが、決まった順番で巡ってくるようになっているとされている。

私は現在、ケートゥ期という7年間に渡る期間の中にいる。

このケートゥ期というのは、なかなかの修業期間であるようだ。

精神修練や内省、禁欲に向かう時期であり、また人によっては引きこもりや社会からの離脱などを引き起こすような時期でもある。

私にとってのケートゥ期は、内省の期間であり、お金の問題による節制、社会や友人たちやコミュニティからの離脱と引きこもりなどといった暗くしみったれた苦しい経験の連続だったように思う。

もちろん楽しいことも嬉しいこともあったけれど、ケートゥ期についての概要を見聞きすれば、それがまさに私のこの7年間であったことは火を見るよりも明らかだ。

私はまさにケートゥ期を生きていた。

 

過去形にするにはまだ早いが、気持ちはもうすでに6月6日の金星期以降に標準を合わせている。

金星期はケートゥ期とは真逆の、楽しむ期間だ。

芸術や恋愛、社交、現世的な楽しみが増えるという。

だがコロナ禍の中、旅行も会食もできないこのご時世にいくら金星期に移行したからといって、どうやってそれらを楽しむのだろうか、と、いささか疑問に思ってしまうのは、この半年ほどの自粛期間を経て旅行や会食が再びできるようになることを心待ちにしていたのにも関わらず、緊急事態宣言が発出されてもなお出口が見えない現状を目の当たりにし、春には旅行と会食再開ができるのだろうかなかろうかと悶々としているためである。

ちょっと前まではこの冬を乗り切れば、きっと春過ぎにはコロナの深刻度は激減されるだろうと高をくくっていたのだ。

それがどうも期待どおりには進まないようだと知り、なんだかガックリ来てしまった。

けれどなんてったって金星期の到来なのだから、たとえコロナ禍であってもきっと私なりの楽しみが新しく展開していくのだろう。

コロナになんて押し潰されない!

私はケートゥ期を抜けるんだ!

 

 

 

以上が2021年、私の年間スケジュールだ。

結局のところ、具体的な予定は何も立てていない。

立てられないままだ。

先が見えないのはこの数年間ずっとそうだったが、この2021年もやはり先が見えない。

 

けれど少なくとも、ケートゥ期を脱すること、金星期に移行することだけは決まっている。

それだけで十分だ。

今を生きろ。

とにかく今は邪気払いだ。

 

冬土用はステイホームで邪気払い

春夏秋冬、最も好きな季節は夏だ。

夏生まれのせいか、小さな頃から夏が大好きだった。

20年、30年前の夏は、今よりももっと過ごしやすかったこともあってか、今よりももっと好きだった。

最近では暑さがきつ過ぎて体力的にしんどくなってきていることもあり、無邪気に大好きと言えなくなってきているのだ。

それでもやっぱり夏が好きだ。

 

反対に、寒いのが小さな頃から大の苦手で冬は嫌いだった。

ただ雪が降ると嬉しくて嬉しくて、寒さなんか忘れて外で大いに遊んでいた。

小学生低学年の頃だっただろうか、足跡がついていない真っ白な校庭を見たくて、誰よりも先に足跡をつけたくて、朝一番乗りで登校したこともあった。

冬は嫌いだけど、雪は大好きだった。

今でも雪が降るとどこか嬉しいような気持ちになって、美しい白銀の世界を年に一度や二度はやはり見ておきたいと思う。

反面、車の運転が怖かったり、現実的なことを考えるとやっぱり嫌だなとも思う。

 

1月2月の寒さが一番厳しいこの時期に、今日みたいに晴れ間があまり出ずに日中から薄暗いような日には、とにかく眠くてやる気が出ない。

さらには気持ちまでどんより、また鬱っぽくなってしまうかもしれないと不安がよぎる。

冬は、怖い。

子どもの頃のようにしょっちゅう風邪を引くようなことはなくなったが、体の痛みや倦怠感、無気力、季節性うつ、心身の不調に気をつけなければいけないのがこの季節だ。

とくに1月17日辺りから節分にかけての土用の時期は本当に注意が必要だ。

季節の変わり目である土用の時期は一般的に心身の調子を崩しやすいと言われているが、実際に数年前に酷い目にあったことがある。

それ以来、冬の土用は私にとって鬼門なのだと肝に銘じて、なるべく動かず騒がずじっとして、健康維持と邪気払いを心掛けている。

そうやって、春を待つ。

 

 

 

都会では緊急事態宣言が発令されている。

不要不急の外出を控えるべきコロナ禍の世界で、緊急事態宣言下に冬の土用が重なり合う時期がもうすぐやってくる。

この間、私は冬眠しよう。

特別そんなことを考えなくともいつも家にこもっているのだが、こんな眠たい冬の日は、冬眠したいとかそんなバカげたことを口走りたくなる。

2021年1月17日から2月2日の土用の期間、私は冬眠、、、は出来ないので冬ごもりしよう。

つまり、去年に引き続きお得意の、ステイホーム。

なるべく家で静かに過ごし、そして健康管理と邪気払いに力を注ぐこととする。

 

今年は大掃除もしないで年末ダラダラと過ごしてしまったので、土用の期間に大掃除をしたらちょうどいい。

土用の時期は地球のエネルギーが弱まることで邪気が高まるため、土用期間の最終日である節分には邪気を払い無病息災を願うため豆まきをするのだという。

土用の期間は不要なものを処分したり大掃除するには打ってつけの時期のようだ。

その土用が明ければ、旧暦の元旦にあたる立春を迎える。

立春に向けて、遅ればせながら大掃除をするのはいい案だろう。

 

今年は例外的に暇な師走だったが、例年通りであれば何となく師走は忙しく十分に大掃除しつくせずに年を越してしまうようなことも少なくない。

そんなことを考えると、私の年末の大掃除は冬の土用ということにしてもいい。

一年後、2021年の年末がどんな世界になっているか分からないが、もしコロナの脅威が薄れていて例年通りの年末とお正月を迎えられるようなら、きっと気忙しい師走を過ごすことになるのだろうから、大掃除は思い切って1月後半にやるものと決めたら年末のストレス軽減に効果大だ。

あまりにも気の早い話だが。

 

とにかく今年の冬土用は、年末だと思って大掃除をしよう。

そして心と体と家の邪気を払いきって、清らかな状態で新年を迎えなおしてしまおう。

それもこれも、心身が滅入らなければの話だが、、、。 

 

 

2021年初春 私のモーニングルーティン

『モーニングルーティン』は、流行りなのだろうか。

ここ半年か一年くらい前からか、よく見かける。

私にも一応、朝のルーティンというものがある。

ちょっと書き出してみよう。

ルーティンと言っても数週間か数か月で移ろいゆくので、完全なルーティンとは言えないのかもしれないが。

 

 

 

朝目が覚めたらすぐに上着を羽織り、そのままベッドの上で座り瞑想する。

このルーティンはもう何年も前からのものなので、完全なルーティンと言えそうだ。

時間は10分から30分くらいだ。

トイレに行きたくてしょうがないときなんかは1分くらいで早々終わりにすることがあってもいい。

その日の自分の感覚でちょうどいいタイミングで終わりにすればいい。

 

瞑想を終えたら、寝間着から日常着に着替える。

日常着という言葉があるのかはよくわからないが、何となく日常着としてみた。

部屋着であり、近所着である。

ちょっと足を延ばして車でスーパーに行ったりする際には、普段着に着替える。

これは外着であって、お洒落ではないがみっともなくはない格好だ。

 

やかんに火をかけ、トイレに入る。

朝寝たいだけ寝ると、ほとんどの場合スムーズなお通じがこの時点である。

便秘とは無縁とまでいかないが、あまりしない。

それより下痢の方が悩ましい。

そんな私も寝不足になるとダメだ、決まって便秘になる。

基本、寝たいだけ寝た後にしか出てくれないようだ。

十分な睡眠とスムーズな朝のお通じはセットなのだ。

午前中から予定がある日は珍しいので、普段目覚まし時計をかけることはない。

寝たいだけ寝て、目が覚めたらそれが起きる時間だ。

今朝目が覚めたのは11時だった。

寝たのは3時、8時間睡眠だ。

生理のときは9時間10時間と寝ているが、普段は7時間半、8時間くらいで目を覚ましている。

そうすると、体もちゃんと応えてくれる。

お通じがちゃんとある。

いい朝を迎えることができたという充実感を感じることもできるのだ。

 

トイレを簡単に掃除し、洗面台の前で髪をとかし、顔を洗い、歯を磨き始めゴシゴシしながらキッチンに戻り、お湯が沸くのを待つ。

お湯が沸いたらやかんから鉄玉子を取り出して、拭く。

半年ほど前に南部鉄器の鉄玉子(文鎮のようなもの)を購入し、毎朝飲んでいる白湯を沸かす際、鉄玉子を入れて沸かすことにした。

貧血気味なので、鉄分補給。

湧いたお湯はサーモスの山専ステンレスボトルという水筒に注ぐ。

この水筒はもう何年も前に購入したものだが、本当に買ってよかった。

保温力が優れているので、朝お湯を沸かして入れおくとしばらく熱々のお湯を好きなときに飲めるので助かっている。

私は冬の間は冷たい水や飲み物はあまり飲まない。

お湯に水を足してぬるま湯にしてゴクゴク飲むのが好きだ。

歯磨きを終えたら、水を足してぬるくした鉄湯をゴクゴク頂く。

 

落ち着いたところで、再び身支度。

髪をまとめて、まつ毛にビューラーを当て、眉毛を描く。

これで私の日常の装いが完成された。

もうかれこれ10年近く、化粧はしないのが普通になっている。

私が化粧するのは年に数回、片手で収まる程度だ。

普段は決まった服を着て、水だけで顔を洗って、歯を磨いて、髪とまつ毛と眉毛を整えるだけで朝の身支度は終了する。

いたって簡単だ。

 

そして、キッチン、居間、居間の反対の部屋の窓も開けて空気の入れ替えをしながら、掃除機をかける。

その間、洗濯する日は洗濯機を回したり、多少の違いは日によってあるものの、ほとんどこんな感じで朝を過ごす。

実際にはお昼間近だが。

 

お題「#買って良かった2020

専業主婦という名の無職の家事手伝い

私は家事が好きではない。

絶対的に嫌いなわけではないし、絶望的に苦手というわけでもない。

好きではないと言いつつ楽しんでいるようなときもあり、なかなか手際よくやっているなと思うこともときにはある。

私は家事が好きでも嫌いでもない、が適当か。

 

私は家事が好きでも嫌いでもないのに、たぶん専業主婦なのである。

たぶんと言うのは、私は専業主婦としては全くダメダメで、当てはまらないと感じる表れだ。

ただの主婦でもままならないのに、「専業」と付く辺りにかなりの重圧を感じてしまう。

私はただ無職なだけだ。

専業主婦になった覚えはない。

私はただ結婚しただけだ。

主婦になった覚えはない。

家事手伝いという言葉があるが、これは一体何だろう?

主婦がいる家の中でさらに家事を手伝う主婦二番手ということだろうか。

それとも主婦がいる家の中で無職ということだろうか。

それはニートだけど、家事手伝いとは別物だろうか。

同じなのだとしたら、手伝わなくても家事手伝いと言ってもいいということだ。

私は自分のことを主婦というより、家事手伝いくらいに感じている。

その程度の家事クオリティしか発揮できていないと思うので、私は家事手伝いでちょうどいい。

 

 

 

私は家が好きだ。

家の中でのんびり過ごすことが大好きで、出かけられないことなど全くストレスに感じないタイプだ。

もちろんたまには出かけたり旅行もいいが、家から全く出なくて済む日をなるべく多く設けたいと、万年暇人のくせにいつもスケジュールを気にしている。

家で気楽に過ごせる一日こそ貴重な休日のように感じるのだ。

 

家にいる時間は非常に長い。

家は私にとって、私自身のような気さえする。

家が散らかっていると、私自身も不健康や無気力やストレス過多だったり良くない状態になっているだろう。

反対に家がきれいに整っていると、健康で気持ちも晴れやかだ。

 

住環境は大事だ。

けれど私は家事を率先してやりたがらない。

掃除、洗濯、料理などといった家事をどうやって簡単に済ますかということばかり考えいる。

家事をやらないで、家の中がぐちゃぐちゃになるのは耐えがたい。

気持ちのいいスペースをキープしたい。

なので最低でも、目に入るところだけはきれいにしておく。

掃除しよう!と普段なかなか思わないので、そう思わなくても汚くならないように普段のルーティーンに組み込んでいる。

 

朝起きて一階に降りてきたら窓をいくつも空けて空気の入れ替えをして、居間とキッチン、洗面所に脱衣所、廊下と一日の大半を過ごす空間とよく利用する空間に限定して掃除機をかける。

掃除機はコードレスなのでよりささっとできる。

他の空間は、掃除しよう!と思えたときだけたまにやればいいということにしている。

トイレ掃除も朝トイレに入ったタイミングで、洗剤のスプレーを便座の裏表に吹きかけてペーパーでささっと拭いておくだけで終わり。

ちゃんとしたトイレ掃除は週に一回程度だけど、毎朝簡単に拭くだけと気づいたときにやるだけでもきれいに保てる。

お風呂掃除はお風呂に入っている最中にやってしまう。

お湯を抜きながら素手で石鹸を泡立てて浴槽の湯垢を浮かせシャワーで流し、最後に再びスポンジとシャワーで全体を流す。

浴槽以外は気になったところを激落ちくんでゴシゴシする。

排水溝にたまる髪の毛をお風呂場に置いてあるゴミ箱に捨てる。

自分の体をきれいにする延長でお風呂掃除を済ませる。

だから、服を着た状態でのお風呂掃除はもうずいぶん前からしていない。

 

改めて掃除しなくても汚くならないように普段から小分けにして自分をだましだましやっておくようにしている。

改めて掃除しないといけないようなところはいつまで経っても汚れているので、これは目をつぶって何とか耐えている。

ストレスになっているわけだからやった方がいいのはわかっているんだけど、できないままだ。

だけど、そのうち主婦心に火がつくだろう。

そのときが来たらやる。

今は家事手伝いのフェーズにいるわけだ。

 

波があるということだ。

主婦モードもあれば、家事手伝いモードも、ニートモードもある。

だから私は私のことを、専業主婦という名の無職、と呼ぶ。

 

 

大人って何だ?大人になれない未熟者の思考

一人車を運転しているときによくある無意識な思考活動の活発化。

永遠とどうでもいい考えがグルグルと回っていたりする。

その内容は政府に対する皮肉交じりの抗議であったり、過去の再体験であったり、根拠のない未来予知であったり、どうでもいいことについての考えと討論が頭の中でヒートアップしていたりする。

 

今週のお題「大人になったと感じるとき」を見て思い出した。

今日運転中にそういえばそんなこと考えていたな。

大人って何だ?

 

 

 

私は自分が大人だと感じられないでいる。

私は大人じゃないのかもしれない。

もしくは、私の大人という認識が違うのかもしれない。

大人とは一体何だろう?

 

大人だなと感じる人々のことを頭に思い浮かべると、働いている人、子どもを育てている人、人を世話している人、責任ある立場の人、肩書を持つ人を私は大人だと考えているようだ。

それが大人だとしたら、私は大人ではない。

 

いつからか自分が子どもだと感じるようになっていた。

今の私にはなんの責任も肩書もなく、どこか手持無沙汰のような感覚があって心もとない、小さく感じる。

38歳にもなってそういったものを何も持っていなければ、世間の中ではどこか居心地が悪くて当然だろう。

けれど、それが悪いとは思わない。

何も持たないことのどこが悪い?

もしそれらを持つことが大人になるということなら私は大人になんてなりたくない、、、なんてことを言ってみてもいいのだが、そこまで突っぱねられるほど子どもでもないし、そんな台詞をはいていいのはティーンエイジャーまでだろう。

現実は、大人になりたくないというよりも、〝なれない〟人間なのだ。

さらにそんな大人になれない人間としてもまた、中途半端だ。

世間体だとか気にしないようでいて実は気にしてしまうのだ。

これは、大人に属したい心を持っているということだろう。

そう、常識的な感覚も持ち合わせながらも非常識な世界に生きているという微妙な人間だから生きづらいのだ。

だから自分に自信が持てないでいる。

自分を未熟者だと感じて当然の状態だ。

未熟者なのだ。

 

 

 

大人とは成熟した人間であり、子どもとは未熟な人間のことを言うのではないのだろうか。

だとすると本当の大人は世間にどれほどいるだろうか?

大人の顔をしたその仮面をひっぺがしたら、未熟で幼稚な成熟しているには程遠い人間が出現するのかもしれない。

テレビで政治家なんかを見ているとろくでもない本性が透けて見えたりする。

化けの皮を剥がせ!

 

そんなことを考えていたのでした。  

 

 

 

余談、、、こんな私にも大人になったなと感じるときがある。

それは、湯豆腐をおかずにごはんを美味しく頂いているとき。

 

今週のお題「大人になったなと感じるとき」

38歳の落胆、、、老化を食い止めろ!

「あ――ぁ―――」

思わず声が漏れていた。

お風呂場の鏡の中に映る自分の裸を見て、落胆。

日頃見ているようで見ていないのか、時としてショックな変化を目の当たりにすることがある。

えっ!こんなことになってた!?と。

38歳ともなると見て見ぬふりはできない。

自分の容姿の受け入れがたい変化とも向き合わざるを得なくなる。

 

中医学では女性の体は35歳から老化現象が表れだすという。

何でもここからは下降の一途たどるだけだとか、、、。

28歳が最も女性の体が充実しているとき、ピークだという。

このピークをどれだけ高く持ってこれるかが勝負だとか、、、。

そんなこと今頃知ってどうしろっていうんだ。

もう38歳だというのに。

 

 

 

33か34歳辺りからだった。

まだまだ若い気でいた自分に老化現象が襲い掛かり始めたのは。

容姿が崩れていく現実が受け入れられなくて、打ちひしがれていた時期もあった。

けれど、人間は皆老化する。

誰一人として、老いない人も死なない人もいない。

どんな未来が来ようとも、不老不死はたぶんない。

だけど、もし不老不死を手に入れられるとしたらどうだろう。

老いて惨めな想いをしないまま生きられるのであればそれにこしたことはないのだが、死なないというのは地獄かもしれない。

私は死なないより、死ぬ方を選ぶだろう。

けれど欲を言えば、老いるのは避けたい、というのが正直な気持ち。

 

できるだけ若くいたい。

できるだけきれいでいたい。

そんな欲にまみれて、スーパーフードをせっせと食べる毎日。

楊貴妃も食べていた不老長寿の薬とも言われるクコの実は、一か月ほど前から毎日10粒ほど食べているが、肌の調子がとてもいい。

クコの実のお陰かは定かではないが。

もしかしたら、ナツメのお陰かもしれない。

ナツメも楊貴妃がよく食べており、一日に三粒食べていると老いないと言われているらしいが、もしかしたらくるみのお陰かもしれないし、レーズンのお陰かもしれないし、酵素玄米、白菜、豆腐、なんのお陰かはわからないが、ここのところ肌の調子がいいのは確かだ。

 

 

 

食べることだけでなく、健康と美容のために運動も自分なりにやっている。

基本は散歩だ。

夫が歩くのが好きなので、二人でよく歩いている。

今日は目標の一万歩を達成した。

踊ることもある。

ユーチューブ動画で見つけたダンスエクササイズを、やはり夫と二人で踊る。

何本か踊ってトータル30分以上踊るようにしている。

最近は歩くばかりで踊ってはいないが。

 

体をぜんぜん動かしていないと筋力が落ちて、容姿がどうのこうの以上に足腰弱って早々おじいちゃんおばあちゃんになりそうで怖いので、健康維持のために二人して歩いたり踊ったりしているのだ。

基礎体力、筋力をつけなくては。

 

 

 

筋トレもしてみたいと考えてもいる。

考えるだけで終わるかもしれないが。

とにかく二の腕が振袖になるのは避けたい。

それとおしりと胸が垂れていくのを今のうちにどうにかしておかねば、と真剣に考えている、、、考えているばかりだが。

 

体の悩みは尽きない。

首の痛み、肩の痛み、胸部の痛み、腰の痛み、猫背、それらを効果的に改善するストレッチや筋トレをいつもユーチューブで探している。

探しているばかりで、実践できていないのだが。

 

筋トレは私が苦手とする分野なのだ。

ストイックは嫌いだから。

そもそも体を動かすことが好きではない。

けれどこのままではいけないんだ。

運動をし続けると、体を動かすことが好きになると言うのは本当だろうか。

体を動かさないと気持ち悪いとか、落ち着かないとか、そんな風に感じるようになるなんてことあるだろうか。

私には未知の世界だ。

いつだって楽ばかりしたい根っからのぐーたら人間に、筋トレなんてできるのだろうか、と考えてしまう、、、とまた考えてばかり。

 

いつになれば理想の体になれるのだろう。

そうこうしているうちにもっと老けてしまいそうだ。

なんて、考えるのはよそう。

考えるな、動け!

老化を食い止めるんだ!

 

とりあえず、一昨日見たユーチューブの筋トレでもやってみるとしよう。